肥後国 くまもとの歴史  ~史跡・人物~
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2012年01月19日

【熊本】百体目の放牛石仏(往生院)

【熊本】百体目の放牛石仏( 往生院(おうじょういん)

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百体目の放牛石仏
往生院(おうじょういん)
熊本市池田1-2-50 (地図)
TEL 096-353-4006


放牛地蔵(ほうぎゅうじぞう)
放牛という僧が、享保7(1722)年から享保17(1732)年までの11年間に、熊本市を中心に玉名、菊池、阿蘇、上益城などの道端に、自分の父親の菩提を弔うために107体の地蔵を建立したもの。

放牛上人は江戸時代 五代藩主・細川綱利の頃、熊本城下の鍛冶屋町に生まれた。貞享(1686)年、兄弟げんかをしているところを父・七左衛門が何度も注意したにもかかわらずやめなかったので、父親は持っていた火吹き竹を投げつけた。それが不運にも家の前を通りかかった武士・大矢野源左衛門の顔に当たり、父親はその場で無礼打ちとなった。これを自分のせいだと嘆き、出家して放牛と名を改め、30余年の修行ののち各地に地蔵菩薩を建てて父を弔った。『十年間に百体の石仏を建立して父の菩提を弔わん』と発願し、百七体の石仏を建立して、その大願を達成した。


百体目の放牛石仏


百体目の放牛石仏

放牛の石仏(百体目)
約三百年前、細川綱利公のころ、城下の鍛冶屋町に貧しい鍛冶職の親子が住んでいた。正月4日、孝行息子は商いに出たものの、無類の酒好きの父に酒を買ってやれるだけの売上げがその日はない。酒を楽しみに夕げのしたくをしていた父は、酒がないのを知ると手に持っていた火吹き竹を門口に立つ息子に投げつけた。竹は息子には当たらず、折悪しく表を通りかかった武士の眉間を割ってしまったからたまらない。父はその場で無礼討ち。 父の非業の死を目の辺りに見た息子は、自分の不幸が父を殺したと嘆き、出家して放牛と名を改めた。放牛は30年間の修業の後、父のめい福を祈って、10年間に百体の石仏を祭ろうと発願し、享保7年(1722)から10年間で107体の石仏を建立してその大願を達成した。 この石仏は放牛石仏の中で最も大きい。(現地案内板より)


父親が火吹き竹を投げた原因がはっきりわかりません。
兄弟げんか説と酒が買えなかった説があります。


百体目の放牛石仏


百体目の放牛石仏



画像をクリックすると大きくなります

『百躰他力放牛』と刻銘があります。


百体目の放牛石仏


百体目の放牛石仏


百体目の放牛石仏

100体目はとても大きく立派です。
高橋東神社にある88体目の放牛地蔵と比べると全然違います。



往生院(おうじょういん)
熊本市池田1-2-50 (地図)
TEL 096-353-4006



参考文献
熊本県の歴史散歩

  

Posted by 夢子 at 13:35熊本市